天安門事件後の中国 4

「莫談国事」(国事を語るなかれ)。


これは、当時の中国のいたるところで聞かれた言葉です。


中国国家統計局が12大都市住民に最大関心事を尋ねた意向調査の結果は、住宅不足51.1%、物価問題41.1%。


「政治の民主化」は出てきません。


上海の名門、復旦大学。


この大学で聞いたところによると、キャンパスでの主流は4つだといいます。


・「托福派」(アメリカ留学に必要な英語試験TOEFLを目指す)


・「恋派」(恋愛)


・「舞派」(ディスコ)


・「麻派」(麻雀)


卒業後は、「外企」(外資系企業への就職)か「外去」(外国行き)が最高の夢だそうです。


「『6・4』についての中国当局の評価に同調はできない。


しかし、政治はこりごりだ。


いまはカネがすべて」といったシラケの反映です。

天安門事件後の中国 3

北京大学と並ぶ名門校・清華大学。


中国共産党李鉄映政治局委員は、91年4月の建学80周年慶祝大会の演説で、次のように強調しています。


「中国の大学は、マルクス主義を宣伝する堅固な砦であり、社会主義精神文明を建設する重要な陣地でもあるべきだ」。


社会主義を徹底して叩き込むため、天安門事件後の89年秋以降、大学新入生は人民解放軍に送り込まれ、全員が1年間の集団思想教育を受けることになりました。


大学の授業では、社会主義理論の追加学習が必修になりました。


卒業後は、中国で「基層」と呼ばれる農山村や末端の工場での労働が義務づけられました。


北京第一外国語大学のある卒業生は、山東省の離島に送られました。


外国の短波ラジオも聞けず、得意の英語をすっかり錆付かせてしまったそうです。


「6.4」の活動家は、いずれも逮捕されるか海外に脱出してしまいました。


厳しい「収」(引き締め)と監視のなかで、エネルギーの爆発は難しいのです。

天安門事件後の中国 2

これは、中国共産党北京市委員会と北京市人民政府が、反革命暴乱鎮圧のため戒厳部隊として出動した人民解放軍の労をねぎらって将兵全員に贈った時計です。


こんな物騒なモノをカネ目当てに売ってもいいのでしょうか。


いったい誰がどういうルートで持ち込んだのでしょう。


「中国人は胃袋でものを考える」という諺があります。


実利主義の強い民族性をうまく言い表した言葉です。


それにしても、この「時計」は天安門事件の風化を示すものなのでしょうか。


1991年6月4日未明。


ワイキューブ事務所によると、2年前の民主化を求める学生運動の中心だった北京大学で、少数の学生が数十本の空き瓶を寄宿舎から地面に叩きつけました。


空き瓶(小瓶)は、中国の最高実力者・郡小平氏の小平と発音が同じ。


中国指導部への不満を表明したものです。


しかし、抗議行動は散発的なものにとどまり、15分も続きませんでした。


しかも瓶を投げたのは、学部学生ではなく年長の大学院生でした。


民主化運動の「後継者」は、冬眠状態にあるのでしょうか。

天安門事件後の中国

北京市の「民間旧芸品市場」。


30軒余りの個人営業の骨董屋が、6畳ほどの戻いプレハブの店を連ねる新しい観光名所のひとつです。


骨董といっても、中国では、国家文物局の検査でおよそ100年前、つまり覇末期以降のものしか国外に持ち出せません。


しかも陶磁器だと、宮廷御用達の「官窯」で焼き上げられた精巧な作品は博物館入りになります。


売っているのは2級品以下の「民窯」の雑器が中心です。


スペースコレクション研究所によると、鑑定の難しい年代物を諦め、文化大革命(文革)時代の毛沢東バッジや胸像をあさる外国人客も少なくないのです。


毛沢東も、ここではすでに骨董。


1991年6月初め、天安門事件からまもなく2周年を迎えようとするとき、この骨董街に奇妙な品物がひそかに出回っているのが日本人旅行者に目撃されました。


「平息暴乱記念」の6文字と、兵士の肖像が入った記念の腕時計です。


89年の天安門事件は、中国の公式規定では「反革命暴乱」とされています。


ベートーヴェン ロマンス第一番ト長調作品四〇、同第二番ハ長調作品五〇 2

この「ロマンス」というのは、南フランスで十一世紀ごろ流行った、
形式の自由な愛の歌のことで、これが、のちに、
器楽にも用いられるようになるのだが、
甘美で感傷的な旋律を持った音楽である。

ところで、ベートーヴェンは、二つの《ロマンス》を書いているが、
それは作品四〇の「第一番ト長調」と、作品五〇の「第二番へ長調」である。

これらの曲は、独奏ヴァイオリンにオーケストラの伴奏がついているもので、
《ロマンス第一番》は終始抒情的で瞑想的な感じの曲。

また、《ロマンス第二番》は《第一番》よりも頻繁に演奏されているが、
アダージョ・カンタービレとあるように、
これに歌詞をつければ、そのまま歌になるような親しみやすい旋律である。

ベートーヴェン ロマンス第一番ト長調作品四〇、同第二番ハ長調作品五〇

一八九一年の一月二十日、南ロシアのタルノーエで、
ヴァイオリンの名手ミッシャ・エルマンが生まれている。

彼は、オデッサ音楽院に入学、十歳のとき、
名教授レオポルト・アウアーに見出され、
アウアーの愛弟子として教育をうける。

エルマンのヴァイオリンには、他のヴァイオリニストには見られない、
甘く柔らかな昧があり、これを称して「エルマン・トーン」と呼んでいた。

その彼の演奏で、とくにわたしが好きだったのが、
ベートーヴェンの《ロマンス》であった。

モーツァルト 交響曲第三八番二長調K五〇四《プラハ》 2

「交響曲第三八番二長調」はプラハで、
一七八七年の1月19日、
モーツァルト自身の指揮によって初演された。

この曲には《プラハ》という愛称がつけられているが、
それは、「交響曲第三六番《リンツ》」の場合と同じく、
たんにプラハで初演されているからで、標題的な意味はなにもない。

ドイツでは、この交響曲のことを《メヌエットなし》と呼んでいるが、
この《メヌエットなし》というのは、ふつうの交響曲の構成とは異なり、
第三楽章のメヌエットがなく、
三つの楽章からできているからである。

モーツァルト 交響曲第三八番二長調K五〇四《プラハ》

モーツァルトの不朽の傑作、オペラ《フィガロの結婚》は、
一七八六年の五月にウィーンで初演され、
十二月にはプラハでも上演されている。

このプラハでの上演は圧倒的な大成功で、
このオペラをとりあげたボンティー二とプラハの音楽愛好家たちは、
モーツァルトに、この成功をたしかめてもらうため、
プラハに招待した。

モーツァルトは、翌八七年の一月中旬、
さっそく妻のコンスタンツェを連れてプラハを訪れるが、
このときモーツァルトは、
前年の暮れに書いておいた新作の交響曲をたずさえて行った。

それが、「交響曲第三八番二長調」だったのである。

シャブリエ 狂詩曲《スペイン》 2

スペインの情熱的な音楽が、新鮮な息吹となっ
て、シャブリエの心を虜にしたのである。

彼は、あこがれのスペインに、一八八二年(四十一歳)の秋、
旅行し、このとき、夢中になって、スペインの民謡とジプシーの旋律を採譜した。

そして、その資料をもとに生まれたのが、彼の代表作、狂詩曲《スペイン》である。

曲全体に、スペイン情緒が豊かにあふれ、情熱的に展開する、
この作曲の初演は、一八八三年(四十二歳)の十一月四日、
パリでラムルーの指揮で行なわれ、稀にみる好評を博している。

シャブリエ 狂詩曲《スペイン》

シャブリエは、ダンディ、デュパルク、フォーレらとともに、
近代フランス音楽を高みへと導いた作曲家で、
一八四一年の一月十八日に生まれている。

彼の作品としては、スペイン旅行の際の材料をもととした、
この狂詩曲《スペイン》や、ピアノ曲をオーケストラ用に
編曲した《楽しい行進曲》が有名だ。

シャブリエの音楽から、ワーグナーの影響を見逃すことはできない。

たしかに、彼の色彩的なオーケストレーションは、
ワーグナーを感じさせるが、
彼に、ワーグナー以上の感化を与えたのは、
スペインの音楽であった。